天狼星の欠片

自作の小説や趣味について雑多に書きます

瀑布

 僕は山歩きが趣味だ。虫や鳥の鳴き声が奏でる自然の交響曲を聴きながら、一人黙々と歩く。これこそ都市化の進んだ日本における、貴重で贅沢な時間だと思っている。だから大概、富士山や高尾山のような有名どころの山よりも、地域の自然歩道のような地元の人しか知らないような場所を好んで歩く。
 今日もまた、全国的に名の知られていない自然歩道を歩いている。県境の尾根沿いに歩く、全長二十キロメートルほどの寂れた自然歩道である。自然歩道と名はついているものの、忘れたころに現れる案内看板がなければ、完全に獣道である。随所に断崖絶壁も存在し、自分が登ってきた標高を意識するとともに、滑落のリスクが脳裏を過ぎり、背筋を冷たい汗が伝った。しかし、それ以上により身近に自然を感じられる喜びが大きく、半分自然に帰った道にテンションが上がっていた。
 四本持ってきたペットボトルのうち一本半分の水分を摂取したあたりで、地面が湿気を帯び始めた。一瞬自分の手持ちの水分が漏れていることを疑ったが、全て無事である。ということは、近くに沢でもあるのかも。丁度汗を流したいと思っていたところなので、タイミングの良さに足取りが軽くなった。しかし、一向に水量が増える気配がない。むしろ乾いてきたんじゃないかと思ったときに、道を横切る形で沢が流れているのを見つけた。いや、沢というと語弊があるかもしれない。今までの道と同じく若干湿っている程度の、だが水が流れて土壌が削れた形跡でしかなかったのだ。雨が降った後などは水が流れるのかもしれないが、普段はずっとこの調子なのだろう。その証拠に、自然歩道が沢を越えるというのに橋はおろか飛び石すらない。落胆ついでに小休止を挟んで、沢が続いているであろう下流や、今来た道、これから登る道や、沢の上流を観察した。てっきり今までの道で地面に染みた水は沢から流れたものと思っていたので、上の道も湿っていることに驚いた。もしかしたら、上に更に沢があるのかもしれない。大分登ってきたとはいえ、まだまだ森林を抜けた訳ではない。上に沢が控えていてもおかしくない。そう考えたら休んでいるのが勿体なく感じて、再び山頂を目指して歩を進めた。
 しばらく歩いていると、土壌の水分量が更に増え、小石混じりの砂から岩場へと変化していった。岩場へと変化する一方水量は増えるので、まるで沢の中を歩いているかのような錯覚に陥る。道を間違えたかと不安になったが、足首まで浸かったあたりで沢の右岸に人の手が加えられている道が現れた。これまでの自然歩道と同じく半分自然に帰った道だが、だからこそ迷子になっていないと安堵した。
 しばらく沢沿いに登ると、更に水量が増え、気づけば十センチメートルほどの水深がある。これ幸いと手で掬って、顔を洗った。かなり気温の上がった空気をものともせず、冷たくて気持いい。上流に目をやると、沢と自然歩道が並走したまま急峻な登りが控えている。思わず重くなる足を沢の源泉が見れるかもという期待で押し殺し、三度歩を進めた。
 険しい登りは、百メートルほどで終わりを迎えた。開けた景色を目の前にして、僕は思わず息を飲んだ。そこには、これまで見た山中の風景の全てを凌駕する異質さが広がっていた。まず、沢の上にそびえ立つ古びた鳥居。そして、鳥居の股を抜けて更に先に、二メートルほどの岩場の上から流れる小さな滝。どちらも、こんな山の上には存在しえないはずである。そして、もう一つ戦慄させられることがある。今まで歩いてきた自然歩道が、岩場に正面からぶち当たって消滅してしまっているのだ。事前に調べた情報では、自然歩道を道なりに登れば森が開け、尾根沿いに進む見晴らしの良い道があるはず。途切れているなんて……落石によって道が塞がれたか、あるいは道を間違えたか。とはいえ、落石ならばこんな滝が形成されるとは考えにくい。そして、岩場の頂点にはどうやって水を蓄えているのか。ここまできたら、水源を見てみたい。岩場は高くなく、掴まれば何とか登れそうだったため、足を踏み外さないよう気をつけながらよじ登った。岩場の上に登り切るのはすぐだった。そこには、小さな先客がいた。
「こんにちは。いやあ、まさかこんな隠れた名所があるだなんてビックリですよ。お嬢さんは地元の方で?」
 白いワンピースを身に纏った少女が、ゆっくりと振り返った。少女の顔を正面から見て、思わずドキリとした。出来心ではなく、恐怖心で。整った目鼻立ちで、圧倒されるほどの美少女である。だが、そこに表情はなかった。能面のような顔からは一切の感情が読み取れないが、圧倒的な恐怖に全身の鳥肌が立った。
「ええ、まあ。ところで、見たいものがあるんじゃなくて?」
 水のように爽やかで本来聴き心地のいい声なはずだ。だが、棒読みというわけではないが、声からも一切の感情を感じない。それがまた恐怖を加速させるが、水源を見るという本来の目的を思い出し、水を探した。そこで初めて気づいた。岩場の上は真っさらに乾燥している。慌てて岩場の下を見ようと身を乗り出して、更に恐怖を突き付けられることになる。二メートル程度の岩場だったはずが、遥か下方に森林を見下ろす断崖絶壁となっていた。そういえば、いつの間にか周りに木が一切生えていない。
「ふふふふふふ」
 思わず振り返ると、少女が口を抑えて笑っている。いや、笑い声を出している。目は無表情のままだし、笑い声は無機質だ。そもそも、何故年端のいかない少女が一人っきりでこんなところにいるのか。地元民だとしても、こんな険しい山に一人で、ましてや白いワンピースで登ってくるなんて。コイツは、何者だ? 生きている人間なのか、それとも――
「ふふふふふふ」
 少女はなおも笑う。この状況を何とかしたい反面、何故か笑いを止めてはいけない気がして、金縛りにあったように身体を動かすことができなかった。
「ふふふふふふ」
 相も変わらず笑う。しかし、段々笑い声に重なるように、別の音が響いた。つい最近聞いたことのあるような、このお腹に響く重低音。まるで、水がぶつかるような――
 気づくと、僕の周りは水に囲まれていた。そして、あまりに長すぎる浮遊感。滝から落ちたのか? それにしてはいつまでも滝つぼに辿り着かない。二メートル程度の滝だったはず。いや、岩場は数十メートルもの高さの断崖絶壁だったはず。いやいや、岩場を登るのに一分とかからなかったはず。いやいやいや……考えても答えが出ないや。そう悟った瞬間、背中に衝撃が走った。周りを覆っていたはずの水は消滅し、俺は全く濡れた形跡がなかった。背中もちょっと転んだ程度の痛みで、問題なく動けそうだ。
 辺りを見渡すと、自然歩道と枯れた沢が交差している、見知った光景が広がっていた。どういったカラクリかはわからないが、とりあえずここで道を間違えて、沢を登ってしまったらしい。ドッと疲れてしまったので、今日はもう下山してしまおう。そう思って、下りの道へと歩を進めた。
 相変わらず、半分自然に帰ったような、獣道のような寂れた自然歩道だ。ずっと同じような光景だが、反対方向に歩いているからか、見たことない風景のようにも感じた。色んな山を歩いているとわかるが、同じような道に同じような木々でも、若干の違いがあるものだ。そういえば、行きに聴こえた虫や鳥の鳴き声が聴こえないな。そして、いつまでも地面が湿っている。それらに気づいた刹那、踏み出した右足が宙を切った。
「ふふふふふ」