天狼星の欠片

自作の小説や趣味について雑多に書きます

俺の神様

 
 どす黒い荒波がコンクリート製の堤防にぶつかり爆ぜる。夜空は雲に覆い隠され、照明らしい照明もないこの場所では僅かに見え隠れする三日月が唯一の明かりだ。
 こんなところに来る人なんていない。特に景観が良いわけでもなく(むしろ悪いくらいだ)、下手すると海に落ちかねない危険な場所なので、地元民でさえ夜は絶対に近寄らないという。ただどんなことにも例外があるように、ごくたまにここを訪れる者もいる。それは大概余程のおめでたい人か、自殺志願者だ。俺は後者である。
 暗くてほとんど視認出来ない。強風に煽られる髪に構うことなく、海の彼方をただただ達観し続けた。二十八年と三ヶ月の人生が走馬灯のように頭を駆け巡るが、それは俺にとって苦痛でしかないものだった。
「俺は……」
 履き潰されたサンダルを脱ぎ、裸足で堤防に登り、そのまま立ちすくんだ。死への恐怖に押し潰されそうになっているが、それでも一度も振り返ろうとは思わなかった。遅かれ早かれ一歩を踏み出し、自身の人生に自分で幕を下ろすのだろう。そう思っていたが、それは思わぬ闖入者によって妨げられた。

「何をしているのですか?」
 高いが不思議と耳が痛くならない、柔らかなソプラノが後ろで響いた。
「何って、そりゃああんたには関係のないことだ。それより何であんたはこんなところに来たんだよ」
「それは、貴方には関係のないことでしょ?」
 後ろの声に少しからかうような響きが含まれた。俺は何も言い返さなかった。言い返せなかったのだ。後ろのことは無視して、歩を進める。
「自殺しようとしてるでしょ」
「だったら何だ」
「させないわよ」
 今まで柔らかかった後ろの声がふいに尖ったものになる。その変貌に思わず振り返った。

 脱ぎ捨てたサンダルの傍に、想像より遥かに小さな少女が立っていた。白いワンピースが風で大きくはためくが、彼女自身の身体は微動だにしていない。その立ち姿は先ほどの声と同じ芯の強さを感じられるが、顔立ちや背丈は小学生といっても過言ではない。そのアンバランスさに人間離れしたものを感じ、背筋に寒気が走った。
「私の目の前で、自殺なんてさせない」
 少女に腕を掴まれても、何も抵抗できなかった。細い腕に似つかない力強さで引かれ、堤防の上に座らされた。ずっと外にいたのか、少女の手は思わず鳥肌が立ってしまうほど冷たかった。
「何で、止めるんだ?」
「私の前で勝手に死なれたくないからよ」
 俺の隣に座り込んだ少女は、あっけらかんと言った。この場は自分が支配していると言わんばかりに、堂々と。
「何だよ、偉そうに。お前は俺の何なんだ」
 少女は、可憐とも妖艶ともとれる不思議な笑みを浮かべた。
「そうね……貴方にとっての『神』といったところかしら」
 神。確かに少女はそう言った。堂々と、それが当然であるかのように。
「信じられないな。そもそも神様なんて存在してるとしたら、俺は神様の非情さを恨むね」
「ふうん。じゃあ私のことも恨む?」
「ああ、恨む。だからもう、どっかに行ってくれ――」

 いい加減うっとおしいと思った少女を突き飛ばそうと、手を突き出した。しかし、小さな身体を飛ばした感触はなかった。少女を傷つけようとした左手は、少女のひんやりとした手に包まれていた。
「何で私を恨むのか、話してみなさいよ。どうせ死ぬつもりだったのなら、それくらいいいでしょう」
 少女の手は、相変わらず冷たい。けれど、心の隅の方が、ちょっとだけ暖かくなったような気がした。不思議だ。さっきまであんなに邪険にしていた少女に、話すくらいならいいかだなんて思ってしまうだなんて。彼女のような人が神様だったら、恨むこともないだろうに。
「わかった、話すよ。気が重くなるような話になるけどな」
 冷たくて暖かい少女は、変わらず不思議な笑みのままだ。
「そんなの承知した上よ」


 俺は全てを話した。就職六年目に入っても未だ仕事に慣れず、叱責される日々。突つけば破裂しそうな、水風船のような人間関係。周りの同年代が次々と結婚していく中、自分には彼女のかの字も訪れないこと。先行きが不安で仕方ないこと。生きるのに疲れたこと。そのような悩みを話せる人がいないこと。遺書にすら遺したくはなかった、小さくて醜い自分のことを、さっき初めて会った少女に全て、赤裸々に語った。こんな話をして迷惑だという考えが幾度も脳裏をよぎったが、少女の微笑みを見るとそんな気が削がれ、全て話してしまいたくなった。やっぱり不思議な子だ。本当に神様だったりして……なんてな。


「まあ、こんなとこだ。つまらない話して悪かったな。それじゃ、今度こそお別れだ」
 もう死ぬ前にするべきことは全てした。最期に彼女に全て話したことも、必然だったのかもしれない。だが、結果は変わらない。俺は死ぬ。見ず知らずの少女に心を開いたところで、この先の人生に何ら変化は起こらないのだから。
「待って。だから勝手に死ぬのは許さないって言ってるでしょ」
 それでもなお、少女は俺を止める。赤の他人の俺に構う理由なんて、ないはずなのに。そんなに死ぬところが見たくないのなら、早くどこかへ行ってしまえばいいのに。
「だから何で止めるんだよ。もう全て話した。これ以上はお節介でしかない。迷惑なんだよ」
「さっきから言ってるじゃない。私の前で勝手に死ぬのは許さない」
 俺がどれだけ声を荒らげても、唾を飛ばしながらまくり立てても、少女は微笑みを絶やすことなく、だが強い意思を持った瞳で俺を縛り続ける。
「だったらお前がどこかへ行けよ! そんなに死ぬところが見たくないならさあ」
「私は、ここの者だから。ここから動くことはできない。だから、ここで勝手な真似をするのは許さない」
「ここの者って何だよ! 神様にでもなったつもりか!」
「さっきから言ってるじゃない。私は神よ。あなたにとってはね」

 少女の態度は、出会ってから何も変わらない。少女の意志が俺より遥かに強いのを実感して、俺の心が揺れた。いや、きっと彼女と出会った時から揺さぶられていた。つくづく不思議な少女だ。真偽の程はともかく、俺にとっては神様なのかもしれない。少女の言う通り。
「君は、いつもここにいるんだよな?」
「ええ、私はここの者だから」

 それだけで充分だった。この先の人生なんて何も変わらないかもしれない。でも、話を聴いてくれる人が、ここに一人いる。それだけで、何とかなるような気がした。
「ありがとな。君のおかげで何とか思いとどまれたよ。また死にたくなったら、会いに来るよ。その時は迷惑をかけると思うけどどうかよろしく――」
「何言ってるの?」
 少女が立ち上がると同時に、強く冷たい風が吹き付けた。少女の暴れる長髪の合間から見える瞳は、強く、どこか冷たく感じる。

「言ったでしょ、あなたにとっての神だって。神は神でもね、私、死神なの」

 一歩、また一歩と近づいてくる。さっきまで死のうとしてたことなど忘れてしまうほど、本能的に感じる死の恐怖に身体を支配された。いつの間にか俺は堤防ギリギリまで追い詰められていて、少女は両手で俺の胸に触れる。

「勝手に死なれたら困るのよね。だって、私の仕事がなくなっちゃうもの。それに、私は絶望しながら死ぬ人間の表情が大好き。死ぬ前から死んだような目した人間ほど、見ててつまらないものもないわ」
 少女は無邪気に笑い、手に力を込めた。
「バイバイ」

 少女の姿が、生が、みるみるうちに遠ざかっていく。彼女の年相応の表情をやっと見れたな。それが最後の意識だった。