天狼星の欠片

自作の小説や趣味について雑多に書きます

落ちてきて、落ちた

 いつもと変わらない朝。そのはずだった。目の前を歩いていた女の子が足を滑らせ、落ちてくるまでは――。

 

『Th12の完全型脊髄損傷』

 ベッド脇に立った初老の医師は、重々しくそう告げた。さらに彼は、銀縁の眼鏡を指先で押し上げながら続けた。

「残念ながらもう、新居君は二度と歩けないだろう。こちらも最善を尽くしたのだが」

 ショックで何も言葉が出てこない。俺が二度と歩けない? そんなまさか……。
 今の俺に何を言っても無駄だと判断したのか、部屋の隅にひっそりと佇む女の子に目をやって、そのまま出ていった。その時初めて彼女の存在を認識した俺は、まじまじと彼女の頭のてっぺんからつま先まで見た。

 誰だろう? 俺の記憶にある限りでは、こんな子は知らない。腰まで伸びた髪は絹のように滑らかで、肌は驚くほど白い。伏し目がちなせいか、睫毛が目を半分ほど隠してしまっている。見たところ歳は俺とそう対して変わらないだろう。

「あの……新居さん。私、その」

 女の子が顔を上げ、まっすぐとこちらを見据える。見開かれた目は想像以上に大きく、思わずたじろいだ。だがそれもほんの一瞬のことだった。次の瞬間、その女の子は深々と頭を下げたのだ。

「本当にすみませんでした! 私のせいで、新居さんの人生を奪ってしまって……っ」
「ちょ、ちょっと待って。人生を奪ったって……いてててて」

 訳がわからず、彼女の肩を掴んで落ち着かせようとしたのだが、俺の身体は激痛が走るのみで、一ミリと起き上がらせることが出来なかった。

「覚えてないかもしれません。あんなことになったのですから。新居さんは今朝、山中駅の階段から落ちた私を庇って、私のせいで、その――」

 彼女の口から漏れる言葉の一つ一つが、俺の記憶の欠片を紡いだ。言われてみれば確かに、あの時落ちてきた子も綺麗な黒髪だった。服装だって同じだ。

「君は……そういえば君の名前は?」
「島田祥子。坂下大学の一年です」

 大学一年ということは、俺と同い年だ。

「島田さんは、怪我とかなかったのか?」
「ええ。自分で憎くなるほど無傷です。新居さんの傷を全て受けられたらどれだけ救われるか」

 クリーム色の可愛らしいブラウスの裾を強く握った彼女の顔は、そう言って眉間に皺を寄せた。

「あのなあ――」
「新居さんがどれほど私を恨んでいることか、私の想像など遥かに超えてると思いますが、責任は取るつもりです。何でも仰ってください」
「何でもって……じゃあキスしろって言ったらしてくれるのか?」
「それは……はい。私に拒否権などありませんから。服を脱げって言われたら脱ぎますし、抱けって言われたら抱きます」

 何でもだなんて言葉ほど嘘くさいと感じてしまい、つい意地悪で言っただけ。それなのにこの子は――。

「それじゃあ、ちょっと顔貸しな」
「は、はいっ」

 目をギュッとつぶって、島田は顔を近づけてくる。間近で見ても彼女の顔はシミ一つなく、その頬は適度に肉がついていて柔らかそうだ。そんな頬に俺は思わず手を伸ばして――。


「痛っ!」

 思い切り平手ではたいた。

「お前、ふざけるなよ。お前のせいで俺がどういう状況に陥ったのかは大体わかってきたし、それでお前が責任を感じるのもわかる。けどな、もっと自分を大切にしろよ。俺なんかに身体を捧げるとか、馬鹿じゃねえの? それともあれか。見かけによらずお前ってそうやって色んな男とヤりまくってたとか?」

 島田はぶたれた頬を押さえてすすり泣くだけで、何も言わない。

「おい、何とか言えよ。図星だったから言葉も出ないってか?」
「――がう」
「は?」
「違うっ! 私はそんな簡単に身体を売ったりしない! 私は……私は……っ」
「わ、わかったから。とりあえず落ち着け。な?」

 わからない。こいつが何を考えてるのかわからない。普段から身体を投げ出していないのなら、何で今ここまですると言っているのか。そう言えば許してもらえるとでも思っているのだろうか。

 だがわからないのはそれだけではない。完全に向こうの過失で俺は二度と立ち上がれなくなるほどの怪我を負わされたというのに、不思議とこの女の子を、島田祥子を恨む気持ちは全く起こらなかった。自分の人生を狂わされたといっても過言じゃないというのに。

「とりあえず今日は帰ってくれ」

 誰よりもまずは、俺が落ち着かなくてはならない。こんなか弱い女の子に手を上げ、泣かせるなんてどうかしてる。

「でも……」
「そんなに気がかりなら、また明日来てくれればいいから。とりあえず今日は、な」

 言ってから、何故明日も来てだなんて言ったのかと自分で不思議に思った。

「わかりました。また明日、改めて」

 ポツリと漏らされるその一言に何故胸が暖かくなるのか、それにも答えは出なかった。

 

 島田祥子の言ったとおり、次の日も彼女は病室を訪ねてきた。そしてその次の日も、そのまた次の日も。結局のところ毎日彼女は顔を出してきた。

 最初の頃はひたすら頭を下げる彼女をただ止めるだけだったが、最近はやっと、普通の会話も出来るようになってきた。俺の治療費を彼女の親が全額負担するということで話がまとまったことが、彼女の心を幾分軽くしたのではないのかと思う。

 

 俺が彼女を祥子と呼ぶようになり、祥子が俺を新居君と呼ぶようになった頃、病室には白い日光が矢のように刺さるようになった。外は夏真っ盛りなことが伺える。

 あの事故から二ヶ月ほど経ち、その間毎日訪ねてきた祥子とは、色々なことを話して、色々なことを知った。俺は一人っ子だが、祥子には二つ上の兄がいること。近所に住む兄の同級生と、三人でよくつるんでいること。そして確証はないが、祥子はその兄の同級生のことが好きだということ。
 実際どうかなんて訊けなかった。最近はあまり口にしなくなったが、未だに強く責任を感じているだろうことはひしひしと伝わってくる。そもそも、そうでなければ律儀に毎日見舞いに来たりはしないだろう。祥子のしたことを考えればそれは正しいことかもしれないけれど、俺としては心苦しかった。


「なあ祥子。お前、好きな男とかいねえの?」

 そんな心苦しさが限界に達したとき、ついにそう訊いてしまった。思えば、今まで恋愛に関する話は全くしたことがなかった。

「それは……今の私に恋愛は出来ないよ」

 悲しそうに目を伏せる祥子を見て後悔の波に呑まれたが、ここまで訊いてしまったらもう止められない。

「出来ないってことは、したい相手はいるのか?」
「…………」

 何も言わないことで、俺は自分の考えを確信した。

「よく話に出る、近所のお兄ちゃんだろ」

 祥子はハッと目を見開き、またすぐその大きな瞳を伏せてしまった。

「俺はいいと思うぞ」

 目の前で細い肩がピクンと揺れたのに構わず続ける。

「話を聞く限りじゃあいい人そうだし、自分の気持ちに素直になんねえと。叶うもんも叶わなくなるぞ」

 恐る恐るといった様子で、祥子が頭を上げる。その目には溢れ出しそうなほど涙が溜められていた。

「……いいの?」
「だからいいって言ってんじゃん。第一俺がどうこう言う問題でもねえだろ」

 まるで堤防が決壊したかのように、祥子の瞳に溜められた涙がとめどなく流れた。思わず手を伸ばそうとしたが、やめた。彼女に触れてはならないという、不思議な、だが確かな予感がしたのだ。

 

 それから数日ほど、祥子は病室を訪ねて来なかった。例の男とうまくいったのだろうか? それともまだ結果が出ずに、やきもきしているのだろうか? どちらにせよ、今まで一日と欠かさず訪ねてきた祥子が来ないということは、自分のことで目一杯なのだろう。自分でけしかけたこととはいえ、少し寂しい気もした。


 だがそんな小さな気持ちは、四日ぶりにの祥子の姿を見たとき、全て吹き飛んだ。真っ赤に腫れた目を見た途端、俺は最悪の結末を察してしまった。

「よ、よお。久しぶり、でもないかな? ははは」
「ごめんね、ここ数日来れなくて」

 そう言って祥子は、弱々しく笑う。あくまで俺の前では気丈に振舞おうと、悲しみを悟られまいとしているのがひしひしと伝わってくる。抱きしめてやりたい。彼女を見てるとそう思ったが、手を伸ばしても届かない。こんな身体じゃなければ届くのに。でもこんな身体にならなかったら、そもそも祥子に出会えなかったわけで――。

「祥子、その……こっちに来てくれないか?」
「えっ、と。今は、その……」

 祥子は扉の傍から動こうとしない。これ以上近づくと、俺が泣き腫らした目に気づくとでも思ってるのだろうか? そんなのとっくに気づいてるというのに。

「どうだったかなんて訊かない。でも、泣きたいのなら思いっきり泣けばいい。話して少しでも気が晴れるのなら、気が済むまで愚痴ればいい。とにかく、そんな苦しそうな顔で、何にもなかったかのようなフリをするのはやめてくれ」

「――新居君には全部お見通しだったのね」


 こちらを見据えた瞳に潤いが増してゆく。ゆっくりと歩み寄り、俺の胸に顔を埋めた。

 祥子の後押しをしたあの日の涙を堤防が決壊したかのようだと思ったが、今日の涙は水風船が破裂したかのような、爆発的に感情が溢れ出したような涙だった。彼女の激情を胸で受け止めながら、あの日の予感の正体に気づいた。一度気づいてしまったらもう、後戻りのきかない気持ちに、気づいてしまった。


 ――俺は、祥子が好きだ。

 

 次の日、ケロッとした表情で病室を訪れた祥子は、しばらく談笑した後、淡々と長年の気持ちの顛末について語ってくれた。彼には高校の頃から付き合っている彼女がいること。その彼女との関係は今も昔も円満だということ。彼は祥子のことを友達というか、妹みたいな存在として見ていたこと、等々。昨日のこともあるので大人しく聞いているが、正直なところどれも聞きたくなかった。祥子が他の男にどんな恋愛をしたかなんて、知りたくなかった。

「ありがとね、新居君。もう大丈夫だから。もう彼のことは忘れるから。もう、新居君に迷惑かけないから」
「祥子――」

「だから、私は今日を最後にもうここには来ないことにします。もう私に出来ることはない。むしろ邪魔なだけだから」
「おい――」

 祥子は立ち上がり、大きな瞳で真っ直ぐ俺を見つめた。何なんだよ突然。急にどうしたっていうんだよ。

「じゃあね」

 小さく微笑み、祥子は背中を向けた。もうこれで祥子の顔を見ることも、声を聞くこともないのだろうか。そんなこと……そんなこと……っ!

「祥子!」

 立ち止まった小さな背中に、俺の素直な気持ちを突き刺した。


「俺の……傍にいてくれ」

「……わかった」

 

 これがズルいことだというのは重々自覚している。多分、今祥子が留まってくれたのは、俺に対する懺悔の気持ちが大きいだろう。だがあれほど自虐的だった彼女が恋愛の話を出来るほど心を開いてくれたように、祥子が懺悔の気持ち抜きに俺に向き合ってくれる日もきっと来るだろう。いつかそんな日が来ると信じて、俺は――。