天狼星の欠片

自作の小説や趣味について雑多に書きます

籠の中の鳥

 籠の中の鳥は、それはそれはもう可愛い。自分にだけ心を開いてくれているとなれば、尚更だ。でも、俺が見たいのは、籠から解き放たれて、自分の翼で羽ばたく鳥だ。たとえ自分に見向きもしなくなったとしても、だ。

 

 ***

 

 窓を開けると、隣家のベランダとは一メートルとない間隔だ。この自分の部屋を手に入れた三歳の時から十四年、それは変わらない。飛び移れば目の前の部屋には同い年の少女が住んでいることも、変わらない。そして、少女――小鳥遊茜里が部屋から出ないのは、一年ほど前から変わらない。

「相馬君、今入ってもいいかな?」
 軽く扉が三回叩かれる音と、遠慮がちなか細い声。茜里とよく似た声だが、茜里の方がもっとハキハキと喋る。もっとも、俺以外には口をきかないみたいで、だから茜里の母もこうして俺に夕飯の配達を頼みに来るのだ。せめて自分の親くらいは心を開いてもいいのではと思う反面、自分にだけ心を開いてくれているというのが嬉しい気持ちもある。高校は離れ離れになってしまったけど、俺の心はいつだって茜里の一番近くに寄り添いたいと思っているのだから。なんて、そういう自分の気持ち全部、今は茜里に伝えられないけどね。茜里が抱えているものに比べれば、些細なことだ。それに、茜里にとって俺は――

「いつもごめんなさいね」
「いえいえ、俺は全然苦に思ってないですから。おばさんが気に病むことないですよ」
「でも……」
「大丈夫です。任せてください」
 この押し問答にも慣れたものだ。要領が悪く、押しに弱く、引っ込み思案で自分の気持ちを上手く伝えられなくて、いつも最終的には申し訳なさそうに俺に託して帰っていく。そういうところは本当、親子だなって思う。

「茜里、入るぞ」
 一応声をかけてから、引き戸に手をかける。案の定、鍵は外してある。今は行ってないとはいえ、茜里は女子高生。犬っころのように転げまわっていた子供の頃とは訳が違うのだから、始めの頃は部屋に入るのを躊躇っていた。しかし、「お母さんが家を出た時点で相馬が来るのわかってるし、入られて困る状況で鍵開けたりしないんだから、さっさと入ってくればいいのに」と半ば呆れられたことがあって、最近では躊躇せずに扉を開いてしまっている。心臓の鼓動が早まっているのは、決して悟られないようにしながら。
「おっす相馬」
「おっす。茜里、お前まさかとは思うが寝起きか?」
「えへへ、わかる?」
 完全に開ききっていない瞳とボサボサ髪を見て、寝起きを疑わない人はいないだろう。ボーっとこちらを見つめてくる表情は普段より幼いながらも、シャツの隙間から見える胸元はそこまで大きくはないがしっかりと主張されているのが眩しくて、思わず視線を逃した。普段からわりと無防備だが、寝起きで三割増しに無防備だ。こればかりは、見慣れることができない。
「それでほら、晩飯預かってきたぞ」
「いつもありがとね。戴きます」
 今日の小鳥遊家の夕飯は、野菜炒めに生姜焼きに味噌汁、白米。いつもながら、栄養バランスの整った食事だ。おばさんも一人で仕事と家事と、よくやっていると思う。しかし、それ故一人娘の心に寄り添う時間は少なかったのかもしれない。物心ついた頃からそのような家庭環境だったため、自然と幼少期一番近かったのは俺だった。思い返すと、昔から茜里はよく俺に我が儘を言った。それは、母親から貰えない愛情を俺に求めていたのかもしれない。だから、同い年なのに茜里は妹みたいに感じていた。茜里も、俺のことを兄のように感じていたのかもしれない。茜里の気持ちは、今も変わらないのかもしれない。
「おーい、相馬?」
「わりい、ボーっとしてた」
「もーう、私じゃないんだからさー。あ、一口食べる?」
 表情の変化が大きいわけではないが、こうして茜里はよく笑う。優しい笑顔を見てると、一年前茜里に起こったことが嘘のように思えてくる。だが確かにアレは、変えられない過去なのだ。
「いや、茜里が食えよ。お前ただでさえ細いんだから」
「でもほら、私あんまり動かないからさ、あんまり食べちゃうと太っちゃう」
「だーかーらー少しは太れっての」
 少しむくれていたが、そのまま茜里は俺に箸を渡した。
「じゃあ、食べさせて」
「ったく、しょうがないな。はいあーん」
「あーん」
 このやり取りも、週に一、二回くらいはやっている。こういう時は大抵甘えたい気分で、いつもより少し、深い話をしてくれる日だ。

「ごちそうさまでした」
「そりゃどうも。作ったのは俺じゃないけどな」
「うん。そうだよね……」
 泣き笑いのような、どっちつかずの表情で俯いた。俺はただ、静かに待つ。茜里が口を開きたくなるまで、いつまでも。

「このままじゃいけないのは、わかってるんだよ」
 時間の感覚が無くなってきたあたりで、ポツリと漏らした。
「でもね、怖いの。学校が怖いだけじゃなくて、社会が怖い。いつ何がきっかけで人が敵対するかわからないし、いざそうなった時、真っ直ぐ立ってられる自信が無いの。相馬が支えてくれないと私何もできないんだって、別の高校に行って気づいちゃったの。今までずっと、相馬に助けられてたことに」
 言葉が出てくるとともに、茜里の瞳から涙が零れ落ちる。自分でも何が話したくて、何で涙が出るのかちゃんとわかってないのかもしれない。口に出しながら自分の気持ちを整理しているような、そんな気がする。
「高校受験の時さ、俺が茜里に合わせて志望校のランクを落とそうとしたら、茜里俺に怒ってくれたよな。覚えてるか?」
「……忘れるわけないじゃん。でも私、あんなこと偉そうに言わなければ、今こうして――」
「あ、いやいや、責めてるわけじゃなくてな。嬉しかったんだよ。勿論、茜里と離れるのが嬉しいってんじゃなくてな」
 一瞬ショックそうな顔をされて、慌てて付け加えた。
「つまりな、それまで茜里って俺にべったりだったろ? それ自体はその、嬉しくなくもないんだけどな。高校を離れることで茜里が一人立ちして、自分の力で歩こうとしているようで、それで嬉しかったんだ」
「それは、相馬の人生の足を引っ張りたくなかったし……」
「そうやって自分より俺のことを考えられるようになったのが、一人立ちっていうんだよ」
 自分でも意識していなかったが、気づけば茜里の頭を撫でていた。最後に撫でたのはいつだったっけか? 少なくとも、中学に入ってからは撫でていないような気がする。昔と変わらず少しゴワっとしていて、暖かくて、不思議と落ち着く。
「もうっ、子供扱いして」
「そうやって膨れるところは確かに子供っぽいな。でもな、茜里は少しずつ大人になろうとしていたんだと思う。それが今、ちょっと躓いちゃっただけだと思う」
「ちょっとじゃないもん。私、頼み事は断れないから面倒事全部押し付けられちゃうし、段々エスカレートして、あんなことまで……」
「茜里……」
 茜里が不登校になるのを決定づけたあの日何があったのかは、俺も知らない。それだけは頑なに話してくれなかった。だが、この怯えようを見る限り、ただ事ではないのはわかる。
 中学までは茜里と同じ学校だったから、何度か茜里がイジメとまではいかないようなからかいを受ける機会に遭遇したことはあった。だが、生来性格が良く、それ故いつでも俺以外の味方はいた。だから、高校に入ってイジメを受けているっていうのは想像しづらい。勿論ゼロとは言えないが、だったら不登校になる以前から何か兆候が見られたはずだ。反応が分かりやす過ぎる茜里が隠し事なんて、できっこないし。
「茜里。茜里が頼み事を断れない性格なのは知ってるし、中学でもクラス委員と生徒会と文化祭の実行委員と、色んな仕事押し付けられててんてこ舞いになってるのは見てきた。まあ確かに心配だし出来れば多少断った方がいいと思うけど、それは今更だろ? ここまでになった理由――あの日何があったのか、そろそろ教えてくれないか? 茜里が苦しんでいることは、俺も一緒に苦しみたいんだ!」
 茜里は俺をじっと見つめて、大量の涙を零した。泣きながらも声はあげず、無表情のまま。初めて見る表情で、踏み込み過ぎたかもしれないと今更ながら狼狽した。
 しかし、表情を変えないまま茜里は語り出した。大量の涙とともに、溜め込んだものを一気に開放するかのように。
「あの日……たまたますぐ見つかったからよかったけど、次あんなことがあったら逃げられないかも。それに、高校じゃなくても、大学でも、会社でも、駅でもコンビニでも、どこでもいるでしょ…………男って」
 男って。その一言で、何があったのか悟ってしまった。未遂とはいえ、一体どこまで……顔も知らない男相手に、ぐちゃぐちゃな真っ黒な気持ちが芽生えた。ああ、これが殺意なのかな。
「茜里……」
 何と声をかけたらいいのかわからない。茜里が今までずっと一人で抱えてた苦しみを想うと思わず抱きしめたくなるが、寸前で躊躇った。俺も、男だ。下心が無いと言っても信じてもらえないだろうし、実際こんな状況じゃなければ下心は湧いてくる。茜里に、触れられない。

 

 沈黙。果てしない沈黙。声もあげず、表情も動かさず、衣擦れ一つ許さない沈黙。どれだけ続いたのかわからない。今が何時なのかもわからない。ひょっとしたらもう日付が変わっているのかもしれないが、わからない。時計を見るために首を捻ることすら、憚れる。

 先に沈黙を破ったのは、茜里だった。
 無言で膝立ちになり、こちらに一歩一歩確実に近づき、睫毛の本数が数え切れそうなほど近づくと、俺をジッと見つめた。肩に手を置かれても、更に顔が近づいても、俺は茜里から目を離せなかった――

 

 苦しい。息ができなくて、苦しい。唇から流れてくる茜里の気持ちで、苦しい。愛情とは違う、切羽詰まったような感情が、苦しい。キスは初めてだけど、本当に愛し合った恋人同士ならこんなに苦しくないのは、何となくわかる。長年思い続けた相手とのキスだというのに、甘くない。甘くないのはきっと、茜里が俺に男としての愛情を持っていないから。これは愛情じゃなくて――
「どうして……?」
 茜里は、寂しそうな顔をしていた。掴んだ肩が、小刻みに震えている。
「茜里。俺はな、茜里のことが好きだ。昔からずっと好きだったけど、中学くらいかな。違う『好き』の感情が芽生えた。何かは分かるよな?」
 目を見開いた茜里は、小さく頷いた。
「でも、茜里は違う。将来どうなるかはわからないし、俺としては同じになってくれると嬉しいけど、少なくとも今は違う。今の茜里は、俺に依存しているだけだ。それじゃあ、前には進めない」
「相馬には、何でもお見通しなんだね」
 ばつが悪そうに、だがここしばらくで一番明るく微笑んだ。
「ああ、なんたって、茜里のことが大好きだからな。でも、俺が好きな茜里は、ここに閉じこもって、俺に依存する弱い茜里じゃない。一人でも生きていけて、他人に優しさを振りまく、明るい茜里が好きなんだ。なんて、言ってると恥ずかしくなってくるな」
「私も。でも、未だに相馬のことは幼馴染以上には見れないよ。何年経っても、このままかもしれない。相馬から離れるかもしれない。それでも、いいの?」
 明るく微笑むのに、涙は枯れることがない。寂しさが無いといえば嘘になるが、ここはもう言うことは一つだ。
「いいんだよ。茜里らしく思いっきり生きて、いいんだよ」
「相馬……!」
 俺たちは、強く抱き合った。これまでの十七年に決別を込めて、これからの数十年に祈りを込めて、思いっきり泣いた。

 

 ***

 

「おーっす相馬、久しぶり」
「久しぶりだな。茜里、髪伸びた?」
「あーうん。伸ばしてるんだ」
 左手で髪を耳にかける見慣れない仕草に、少し心が揺れ動かされる。髪から覗いた薬指が、太陽の光を反射してキラリと輝いた。今日は快晴だ。
「それで、何年か振りに地元へ帰ってきたのはどういう風の吹き回しだ? まさか、俺が恋しくなったのか?」
「まっさかー! あはは、冗談キツイよ……まあ、久しぶりに相馬の顔が見たいなっていう気持ちもゼロじゃないけど、メインは別」
 冗談だって笑い飛ばされるのは、十八年家族同然だった幼馴染として普通に傷つくんだけどな。
「高校の友達がね、結婚するんだって。相馬を除いたら、地元で一番の親友なの。だから彼女の結婚式を見逃す手はないなって帰ってきたの」
「そっか、そりゃあめでたい。忙しい中、俺に会う時間を作ってくれてありがとな」
 茜里の優しさに少しこそばゆくなって、頬を掻いた。俺の薬指は光らない。
「まあ他の友達には式で会えるけど、相馬はほら、部外者だし」
「茜里は前より塩対応になったな」
「えーっ!? こうして会ってあげてるのにそんなこと言うー?」
「あっはっは、冗談だよ」
「もーうっ」
 塩対応でなく、依存抜きでの素の茜里がこれなんだろう。というのは、俺の心にしまっておく。
「じゃあ、そろそろ時間だから行くね。また何かあったら連絡して」
「はいよ。じゃ、いってらっしゃい」
「えへへ、いってきます」
 外へ駆け出す茜里の背中に、一瞬白い翼が見えた。