天狼星の欠片

自作の小説や趣味について雑多に書きます

Stellar Love

 
 昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。その娘は、機を織って神様たちの服を作る仕事をしていたため、織姫と呼ばれていました。やがて織姫は、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者と恋をし、結婚しました。二人はとても仲がよかった。いや、よすぎました。二人は仕事も忘れて遊んでばかりだったのです。そんな二人に怒った天の神様は、二人を天の川の東と西の岸に引き離してしまいました。だがあまりにも悲しむ織姫を見かねて、「一年に一度、七月七日の夜だけ彦星に会ってもよい」と言いました。それから織姫と彦星は一年に一度の逢瀬のため、それぞれの仕事に精を出しました。そして待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡り、彦星に会いにいくのでした。


 ***


「はぁ……」
 郊外のある一軒家、二階の窓から顔を出した女の子は、風にのまれてしまうほど小さな溜息をついた。彼女が見つめるのは家々の灯ではなく、夜空を彩る星たちでもない。
 過去だ。
 彼女を縛りつける、忘れようとしても忘れられない決定的な過去だ。


「離れ離れになるから、お前のことを幸せにしてやれないから。だから別れよう」


 一字一句、声の調子も、表情も、昨日のことのように覚えている。実際はもう、一ヶ月ほど前のことなのだが。

 女の子には、高校の頃からずっと付き合っていた男の子がいた。常に前を見据えていて、時には彼女をも置いていく勢いで突き進む彼のことが、たまらなく好きだった。男の子の方も同じだ。常に彼のことを気遣い、自分のこと以上に大切に思ってくれる彼女のことが、心の底から好きだった。
 だが、男の子の愛情は深すぎた。大学が離れ離れになり、二人は滅多なことでは会えなくなった。会おうと思えば、貧乏な学生には負担の大きすぎる交通費がかかる。会いたいという気持ちがどれだけ強くても、物理的な問題は解決できない。電話やメールで気を紛らわそうとしても、むしろ会いたいという気持ちが強まり、余計苦しくなるだけだった。そうして、何よりも女の子の幸せを願う男の子は、『別れ』という答えを一方的に突き付けた。
 だが女の子は、その答えを到底受け入れられずにいた。最後に会ったときのあの、心に凍えるほど冷たい風が吹き込んだような、寂しげな声が耳に焼きついて。


 ふと夜空を見上げた女の子は、眼前に広がる天の川から、織姫と彦星のことを思い浮かべた。強く想い合っていながら一年に一度しか会えないとはどういうものなのだろうか? 苦しくないのだろうか? いっそのこと忘れたいとは、思わないのだろうか? と。

 気付くと女の子は携帯を手にして、この一ヶ月何度もかけようとしてかけられなかった番号に電話をかけていた。どういうことだか、今なら大丈夫。そう思ったのだ。
『――もしもし』
 三コールほどした後聞こえた声は、彼女の知っているままの声だった。
「久しぶりだね。元気だった?」
『まあ、それなりにな』
 そう言う声は、そんなに元気そうではない。
「あのね、しつこい女だって、嫌な女だって思われることを承知で言うよ。私あなたと別れるなんて、やっぱり嫌」
『……』
「あなたは私たちが全然会えないから、私のことを幸せにしてやれない。そう思ってるんでしょう。違う?」
『違うもなにも、俺自身がそう言ったんだけど――』
「私にとってはね、」
『ん?』
「私にとってはね、あなたと気持ちが繋がっている。それ以上の幸せはないの。たとえ会えなくても、苦しくても、それがあなたのためならそれすら幸せなの」
 電話の奥で言葉を挟もうとする気配を断ち切るかのように、彼女は続ける。
「七夕の話、知ってる? 織姫と彦星の」
『そりゃあ、子供の頃から何度も聞かされたしな』
「織姫と彦星は、あんなに想い合っているのに、一年に一度しか会えない。それでもずぅっと、二人の気持ちは離れないの」
『いや、それはあくまで物語であって――』
「そう考えたら、私たちなんて全然マシよ。最低でも夏休みと年末はあなたも帰ってくるし、何しろこうしていつでも話せる。それでもダメなの?」
『いや、でもなあ……』
「それとも、もう私のことなんて好きじゃない?」
 冗談めかしてそう言ったが、女の子の心は真剣だ。答え次第ではもう、二度と彼の声は聞けない。
『バッ、んなわけねえだろ! ……あっ』
「もう、やっぱりそうじゃない。変な意地張っちゃって」
 女の子は気持ちよさそうに目をつぶった。男の子のことがたまらなく愛おしい。目の前にいたらきっと、ぎゅうっと抱きしめていたことだろう。
「大丈夫だよ、私たちなら。形上ひと月も前に別れていたのに、お互いの気持ちは全く変わってないんだから」
『違うよ』
「え?」
『変わってないなんてことはない。俺がお前を想う気持ちは、むしろ強くなってる。自分からあんなこと言っておいて、何を今更って感じだけどな』
 自嘲気味に言っている中に照れが見え隠れする。そんな彼に、女の子は笑みを漏らした。
「じゃあホントに大丈夫だね。これからもよろしく。私の彦星さん」
『あ、ああ。こっちこそよろしくな。その……俺の織姫』
 男の子は恥ずかしそうにボソッと添えた。きっと顔を真っ赤に染めていることだろう。
「なあにー最後聞こえなかったー」
 当然女の子には聞こえている。
『うっさい! じゃあもう切るぞ!』
「えええ、そんなあ」
『また明日な、俺の織姫』
 今度ははっきりと、聞こえなかったなんて言わせないほど強く言った。
「……うん」
 電話を切ると、女の子の頬を一筋の涙が伝った。悲しみの涙ではなく、喜びの涙。
 涙を拭って夜空を見上げると、驚くほど綺麗だった。さっきと大して変わってないはずなのに、見るときの気持ちでここまで違って見えるものなのだろうか。まるで逢瀬を遂げる織姫と彦星を祝福するかのように。再び結ばれた若い二人を祝福するかのように。


 星空はいつまでも繋がっている。二人の心も、きっと――。