天狼星の欠片

自作の小説や趣味について雑多に書きます

ホワイト・バースデー

 記録的な大雪が日本中で降った、今年の冬。それももう過去の話。今は春だ。
 そう、季節は春だ。だけど私に春が訪れるなんて期待していない。あの鈍感太一のことだから、きっと無難なクッキーあたりを、いつもの余裕な表情で渡してくるのだろう。
 あいつとは高校入学以来、三年の付き合いになる。ずっとクラスが同じで、何となく一緒にいて楽しかったこともあり、太一とはよくつるんでいた。
 屈託なく笑う太一を、いつしか友達以上の目で見ていた。別に初めてのことではない。私は割りとサバサバしていて、男に抵抗がないのもあって、よく恋だの愛だのとは無縁かと思われるが、そんなことはない。私だってちゃんと恋愛くらいしている。実ったことなんてないけど。

 今日は三月十三日。明日は世間ではホワイトデー。そして私の誕生日。
 先月の十四日、太一に誕生日プレゼントと称してバレンタインチョコを渡した。チョコを手作りなんて初めてのことで、正直自信なんてないけど、込められるだけ気持ちを込めたつもりだ。でも太一は気付かないんだろうなぁ。今まで色んなアプローチをしてきたけど、気付いたことなんてないし。
 太一の鈍感さはもう伝説レベルだと、私は思う。
 あいつがショートカットの子が好きって言ってた翌日に、背中まであった髪を今の長さまで切って登校したのに、ノーコメント。気付いた素振りさえ見せない。二人で喋ってて凄く盛り上がってたから、その勢いで腕を握ってみても、無反応。
 私のことを全く女として見てないなんてことはわかってるけど、せめて私の気持ちくらいには気付いてもいいんじゃない!? と何度思ったことか。
 でもいいの。告白する勇気なんて私にはないし。この間チョコを渡したときでさえショート寸前……というか完全にショートしてた私に、告白なんて無理。
 だから太一と会うのは明日が最後。明日あいつが適当に買ったであろうクッキーを受け取って、それでおしまい。
 ってゆーか未だにあいつから連絡来ないんだけど。もう夜の十時だけど。まさかあいつ、約束すら覚えてないとか? ……いや、それはないか。あいつは馬鹿で鈍感などうしようもないやつだけど、今まで約束を破ったことなんて一度もない。そういう所は誠実なのだ。だからいつ連絡が来てもいいように、スマートフォンを握りしめて、でもちょっと眠いからベッドに横になって……ってダメだー! それじゃホントに寝ちゃ、う……

 ーー

 うーん……さっきからずっと何かが鳴ってる。目覚まし時計? いや、そんな騒々しい音じゃなくて、これは……
スマホの着信? あぁもう朝からうるさいなあ……朝? うわぁぁぁあ!」
 枕元の置時計は一時を示していた。カーテン越しでもはっきりとわかる明るさに、自分が十時間以上寝てしまったことを思い知らされる。
「って着信着信! はいもしもし?」
 寝起きでパニックになるあまり、誰からかかってきたのかも確認せずに出てしまった。でも電話口のあいつの声を聞いたとき、あいつの怒りを含んだ声を聞いたとき、そんなパニックは全て吹き飛んだ。
「お前、何なんだよホント。昨日の夜送ったラインには未だ既読ついてないし、一時間以上電話かけてるのに全然出ないし。元はといえばお前が連絡しろって言ったんだろ!? ただからかうだけならもう二度と連絡してくんな!」
「あっ、ちょっと待っ……」
 言い訳なんてする暇もなく、切られてしまった。
「そんなつもりじゃないのに」
 でも私が悪いんだよね。私が連絡してって言ったのに、当日の昼過ぎまで寝過ごすなんて。ああもう完璧太一に嫌われちゃったよ。恋人以前に友達としても付き合えないよ。
 そういえばさっきライン送ったって言ってたような。ってこれはーー
 ラインを開く前にまず、着信履歴に目がいった。太一の言った通り、十二時あたりからずっと着信が。これ五十件以上はあるような気がする。こんだけ電話鳴ってて起きない私って……
 ラインを開くと、通知が一件。太一から。送られてきたのは昨日の十時過ぎ。もしかしてこれって私が寝落ちした直後? そこには、太一にしては少し長めの文章が綴られていた。
『久しぶり結衣。卒業式以来だな。先月の十四日、結衣が誕プレくれたときにお返ししろって言ってたよな? そのお返しがしたいから、明日の十二時、お前がいつも降りる駅に来てくれないか?』
 読みながら自然と涙が落ちるのを自覚していたけど、とてもそれを拭う余裕なんてなかった。今日の為に色々準備してくれた太一に申し訳なくて、こんな大切な日に寝過ごした自分が憎たらしくて、ただ泣くしかなかった。

 いや、それじゃ駄目だ。この胸のもやもやはどれだけ泣いたところで消えることはない。不思議とそう確信を持てる。
「そうだよね。どうせ嫌われるんだったら、全部言いたいこと言っても同じだよね」
 もしかしたら、本当にもしかしたら、太一はまだ待ってくれているかもしれない。いや、怒って帰っちゃった確率の方が高いけど、高いっていうかほぼ百パーセントだけど。それでも!
 私は何も持たず、寝起きのままの格好で家を飛び出した。

 私の家から一番近い駅には、歩いても五分しかかからない。走れば三分。いや二分で行ける。まだ間に合うかもしれない。そんな淡い期待を抱いて走ったが、そこにはもう太一の姿はなかった。
「そっか。そうだよね」
 そりゃそうだ。当然怒って帰ってるに決まってる。それなのに私は何をそんなに期待してたんだ。ホント馬鹿だな。私って。
「馬鹿か、お前」
「へっ?」
 振り返ると、そこにいたのは私の今一番会いたかった人。太一がそこにいた。仏頂面で腕を組んでいる太一は、私が知っているどの太一よりも怒っているように見えた。
「ご、ごめんっ! 言い出しっぺの私がずっと寝ちゃってて。太一のこと待ちぼうけにして。本当にごめんなさい!」
 許してもらおうだなんて思ってない。許してもらえるなんて思っていない。でもどうしても、一言謝りたかった。それで私の心が晴れるかといったらそうじゃない気がするけど、やっぱり言わずにはいられなかった。
「……いよ」
「へっ?」
「そのことはもういいんだよ。俺も言い過ぎちゃったしな」
 おかしい。太一は明らかに怒ってると思ってたのに。もう怒ってない? いやいやいや、そんなはずはない。さっきから怒気というか殺気が凄いよ。
「嘘。太一むっちゃ怒ってんじゃん。いいんだよはっきり言って」
「じゃあはっきり言うけどな。お前何なんだよ。その格好」
「格好? ……あぁあっ!!」
 必死過ぎて忘れてた。チェック柄のパジャマに、ぼさぼさの髪。靴は履いてなく、裸足のまま。私ったら必死過ぎて、寝起きの姿そのままで家を出ちゃってたんだ。あうぅ……冷静になるとすっごく恥ずかしいよ。こんなだらしない姿を太一に、いや道行く全ての人に見られちゃったなんて。
「これじゃ私もうお嫁にいけないよぉ」
「大丈夫だ。お前なら嫁にいけるから」
 うずくまる私の上から、いつになく優しい声がかかった。
「太一?」
「お前は、その……可愛いし、しっかりしてるし、明るいし。だから……まあ大丈夫だろ!」
 信じられない。太一がこんなに私のこと褒めちぎるだなんて。明日は雨どころか大雪が降るね。きっと。
「ふふっ。今日の太一なんかおかしい」
「なっ!? いやいや、おかしいのは結衣の方だろ?」
「そうかもね」
 よかった。いつの間にか自然と太一と話せてる。これなら後腐れなく別れられるね。
 いや、それじゃよくないって! 言いたいこと、今までずっと伝えたかったこと、最後に全部話すって、出るときそう決めたじゃん。
「ねえ太一、私……ふぇっ?」
 私の肩に、暖かい黒いコートが掛けられた。
「恥ずかしいだろ? その格好じゃ」
 コートを脱いだ太一は、下に薄手のシャツしか着ていなかった。
「でもこれじゃあ太一が寒いじゃん」
「俺のことはいいんだよ」
「でも……じゃあ」
 私はいつもの距離より更に近づき、太一の背中に腕を回した。私の頭が、太一の広い胸に埋もれた。
「えっ。ちょっと結衣!?」
「だって太一が寒そうなんだもん。あっ嫌なら嫌って言ってね」
「べ、別に嫌なことは……」
 えっちょっと何で頬染めるの? 何でそんなに太一の心臓は脈打ってるの? 私、これ以上を期待しちゃっていいの?
「ねえ太一。私、そのね。太一のこと好きだよ」
「はっ!? ……ああ友達として?」
「違うよ」
「えっ、てことは……」
「そういうこと」
「マジか」
「うんマジ」
 何だろう。今さらながら、この太一に腕を回して密着している状態が、ものすごく恥ずかしくなってきた。よし離れよう! って思ったのに、太一が私の肩に手を置いてしまった。
「太一?」
「あの、俺の勘違いだったらすまないんだけどさ。もしかして結衣先月くれたチョコってハート型、だったりした?」
「え……う、うん。そうだよ」
 嘘みたい。あの鈍感太一が気づくなんて。私から見てもハートとは程遠くなっちゃってたのに。
「あれ貰ったときな、すげえ嬉しかったんだよ」
「それって……」
「そーゆーこと。まああの日まではそういう目で見たことなかったけどな」
「えーっ。私はもっと前からだよ」
「嘘!? いつから?」
「内緒」
 こうしていつもより近くに太一を感じて、太一の気持ちを知ることが出来て、私は本当に幸せだ。ついさっきまでは二度と太一に会えないかと思ってたんだから。
「そういえば太一、ホワイトデー何くれるの?」
「バッ、これは誕生日プレゼントだって」
「いいじゃん今さらそんなこと。それでそれで、何くれるのっ?」
 太一は私の肩から手を離し、鞄の中をまさぐった。
「ほら、これ。何となくこういうの、お前好きそうだったから」
 太一の手にあるのは、どこかの店で買ったであろう無難なクッキーだ。やっぱりね。でもーー
「ありがとう。嬉しい」
 太一が私の為にこれを選んでくれたことは、すごく嬉しい。それに何だかんだいって私、クッキー大好きだしね。
「あっそうだ太一、今から家来る? 今日お父さんいるけど」
「なっ、流石に今日は遠慮しとくよ。また春休みの間にでも、どっか遊びにいこうな」
「へへへ。冗談だって。じゃあその時はまた連絡してね」
「どーせまた寝てるんだろ。するけどさ。たまにはお前からも連絡しろよな」
「えー、それはちょっと」
「何でだよ!?」
 そんなわけで、私に人生初の春が訪れたみたいです。勿論太一と別れた後、私のほうから真っ先に連絡しましたよ!

バレンタイン・バースデー

 漂う甘い匂い。そわそわする男子。そう、今日は世間でいうバレンタインデーだ。
 とはいえ俺は、他の男みたく女の子からチョコを貰えるんじゃないかなんて淡い期待はしていない。所詮バレンタインなんてチョコ会社の陰謀。それに最近は女の子どうしでチョコを渡し合う友チョコなるものが流行りだそうじゃあないか。今日のチョコの気配だって、どうせその友チョコやらなのだろう。だから、期待するだけ無駄なのだ。
 そんなことより、今日は俺にとって大事な日だ。俺にとって、一年に一度の。
 二月十四日。十八年前、俺という生命がこの世にお披露目された日。つまり今日は、俺の誕生日なのだ。
 まあだから何って言われても、別に何もないのだが。男友達は他人の誕生日など気にしないがさつな奴ばかりだし、女友達は皆チョコに夢中だし。いや高三になって今更誕生日プレゼントがどうのこうのなんて考えてませんよ? ホントですよ?
 ーー
 あーもうチョコだろうが誕プレでも何でもいいから、誰かくれないかなー……何てね。
 そんな都合のいいことが起きないことは、俺の十七回の誕生日が立証してくれている。全く残念なことだが。そんなこと起こるわけーー

 


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「太一。これ……」
「何だ結衣? ……それって!?」
 ショートカットがよく似合うクラスメイトの手には、甘い匂い漂う小さな包みが握られていた。
「誕生日プレゼント! 太一今日誕生日でしょ」
「あぁ、ありがと。ってこれ誕プレ? チョコにしか見えないんだけど」
「うんだから誕プレでチョコレート。私の手作りなんだから、ありがたく受け取っときなさい」
 へえ、結衣がチョコをねえ。こう言っちゃなんだが、お世辞にも手料理が出来るイメージじゃないんだよな。三年間同じクラスだったけど、あいつが男子はおろか女子にさえチョコを渡してるとこ見たことないし。今日だってそんな気配は微塵(みじん)も……ん? ちょっと待てよ。
「お前、そのチョコ……」
「へっ!? ななな何?」
 何だ? 何をそんなに慌ててるんだ? もしかして本当に俺が睨(にら)んだとおりーー
「そのチョコ、食えるんだろうな?」
「え……た、食べれるよぉ! いや、正直自信はないんだけど。でも頑張って作ったんだからね! ちゃんと来月お返ししてよねっ」
 結衣が顔を真っ赤にしながら、上目遣いで俺を見上げる。普段見ないような彼女の表情を見て、俺の心臓が激しく鼓動した。
「いやいやいや、お返しってこれ誕プレだろ? 何でホワイトデーに返さなきゃいけないんだよ。第一学校だってやってないだろ?」
「誕生日」
「は?」
「私誕生日が三月十四日なの。だからとびっきりのホワイトデー期待してるから」
 そう言って可愛らしく片目をつぶってみせる。これまた普段の結衣なら絶対しないような仕草。だが思いの外不自然でなく、というかむちゃくちゃ可愛かった。
「いやだから学校が……」
「別に呼び出してくれればいいじゃん。私の連絡先知ってるでしょ」
「ま、まぁな」
「じゃあそういうことでヨロシク。じゃあねっ」
「あぁ、じゃあな」
 結衣は慌ただしくマフラーを巻きながらいつものように、いやいつも以上に落ち着かない手つきでドアを開けて、そのまま走っていってしまった。
「何だったんだ、あいつ?」

 俺は家に帰ると真っ先に部屋に飛び込み、いつも通り鞄を放り投げそうになってすんでのところで止めた。危ない危ない。
 丁寧に鞄を開けると、そっと結衣から貰ったチョコを取り出した。袋の紐をほどくと、甘い香りが部屋中に充満した。そのまま袋を逆さにし、中身を手のひらに出した。
「う、うん。まあそうだろうな」
 ついに姿を表した結衣のチョコレート。売り物と見間違えるほどの綺麗な出来で、とはやはりならない。四角いのか丸いのかよくわからないが、とにかく小さなチョコの塊が五つあった。
 俺は恐る恐るその中の一つを口に入れた。ある程度覚悟していたが、そんなことは必要なかった。見た目のずさんさに反して、結衣のチョコレートはとても美味しかった。それこそそんじょそこらの売り物よりも。
 二つ三つと口に入れるとそのたびにチョコレートの甘さが、香ばしさが口の中に……いや身体中に広がった。
 結衣のチョコを身体中で感じていると、ふと先程の結衣を思い出した。

 結衣とは高校に入学してすぐ出会って、ずっとクラスが一緒で気が合うのもあって、思えばかなり彼女と仲がよかった気がする。多分同じ高校の女子の中で一番親しかっただろう。
 だがさっきみたいに慌てたり、顔を赤らめたり、見つめたり、とにかく女の子らしい行動は見たことがなかった。結衣は、顔はパーツパーツがはっきりしていて標準より美人の部類に入るのだが、性格や素振りに女らしさが微塵もなく、何となく女として見たことがなかった。意識したことがなかった。なかったのだ。ついさっきまでは。
 って何を考えてるんだ俺は。俺が何て思おうと、結衣がそんな気持ち抱いてくれるわけないじゃないか。
 苦笑しながら、最後の五つめのチョコレートを掴み上げた。
「ん? これって……まさかな」
 うん気のせいだ。きっと俺の願望がそういう風に見させたんだろう。
 だって、結衣が俺にハート型のチョコなんて渡すわけないもんな。

 --

 時同じくして、帰宅して自分の部屋に入った結衣は、激しく鳴る心臓を押さえながら、へたりと座り込んだ。
「はぁ……いくら鈍感な太一とはいえ、流石に気づいちゃったかな? 私の気持ちに」

噞喁(げんぎょう)の恋詩(うた)

「噞喁って知ってるか?」
 隣で色鮮やかなカクテルをチビチビと呑んでいる友人に問いかけると、彼女は小さく首を傾げた。
「げんぎょう? 知らないよー。相変わらず、シュン君は難しい言葉好きだねえ。どういう意味なの?」
 そう言って口を尖らせる素振りはあの頃のままで、でもあの頃には見たことのない甘さが含まれていて。
「そうだな。俺の頭の中とか、今まさにそんな感じ」
「えーっ、それじゃ全然わかんないよー」
 まあ、それはきっと、普段より幾分多く酒が入ってるからに過ぎないのだろうけど。
 俺が彼女――佐藤瑞穂と五年ぶりに再会したのは、数時間ほど前のことである。

 

 ***

 

「いやあ、あの知佳が結婚とはねえ」
「失礼ねえ。そりゃあもう二十五なんだから、結婚くらいしますぅ」
 そう言われても、ちょっと前まではいつも一緒で、一番近くにいた知佳が結婚して、遠い存在になってしまうなんて、なかなか感慨深いものがある。そんなこと言ったら「そーやってまた子供扱いする」って頬を膨らませるんだろうけど。
「それより、俊哉君こそいい加減そういう知らせがあってもいいんじゃないの? もう三十路が目の前だよ」
「失礼な。まだあと三年あるし」
「三年なんてあっという間だよ。あっ、じゃあ私は他の方に挨拶とかあるから」
「おう行ってこい。なんたって、今日の主役なんだからな」
「えへへ、ありがと。じゃあまた後で来るからね」

 知佳が人の中に消えるのを見計らって、手元のグラスに残ったワインを一気に飲み干した。従妹の、そして初恋の相手の結婚式の二次会。居心地が悪いったらありゃしない。今ではもう知佳に対する想いが完全に消えてるとはいえ、他の男と幸せそうにしてるアイツなんて、見たいとは思わない。どうせこの人の量だし、帰ったところで気づかれないだろう。知佳にはバレるかもしれないが、まあいいや。
 そうしてひっそりと出口に向かっていると、出会ってしまったのだ。こんなところにいるはずのない、忘れようとしても忘れられない女性。赤いパーティードレスを身に纏った、大学時代の同期。佐藤瑞穂に。

「あれっ、シュン君? シュン君だよね!? うわあ久しぶり。奇遇だねえこんなところで」
「もしかして、瑞穂か!? 嘘だろ」
 嘘だ。もしかしても何もない。一目見た時からもう、確信していた。彼女を見間違うはずがない。
「どうしたのさー。もしかして新婦さん側の参列者?」
「ああ、新婦が従妹なんだ。瑞穂は新郎側の?」
「まあ、うん。ちょっとややこしいんだけどね」
「ややこしいって?」
 まさか、瑞穂と新郎がかつてそんな仲だったとか、そういうのじゃないよな。俺も人のことは言えないし、どっちみち過去のことなんだろうけど。
「ちょっとここでは話しづらいなあ。どうしよ、場所変えようか」
「それなら――」


 二人で抜け出して、別の場所で呑み直さないか?


 学生時代とても言えなかったような歯の浮く台詞が、何故かすんなりと口からこぼれ落ちた。瑞穂は悪戯っぽく微笑むと、テーブルからドレスと同じく赤いポーチを拾い上げた。
「いいね。ちょうど退屈してたところだし、昔話にでも花咲かせましょっか」

 

 式場から少し離れて、駅近くにある小さなバー。入り組んだ場所にあるためあまり多くの人が立ち寄らない、しかしバーテンダーの腕は信頼できるもので、俺のお気に入りの場所だ。静かに呑みたい時にはうってつけのこの場所に他人を、それも女子を連れて行くのは、初めてのことだ。
「へええ、こんなところにバーがあるんだ。流石シュン君、詳しいね」
「まあ地元だからな。逆に大学の方の店とかは、未だによく知らないよ」
「あっちは田舎だから、そもそもそんなに店ないんじゃないかなあ」
「なるほど。瑞穂は何呑む?」
 俺の前には既にカンパリオレンジが置かれている。常連とはいかなくともそこそこ足を運んでいて、俺の好みはすっかり覚えられているからだ。
「じゃあ、シュン君と同じので」
「いいのか? これ結構苦いぞ」
「う……じゃあカシスオレンジで」

「じゃあ、呑むか」
「うん。じゃあ……私たちが再び出会えたことに、乾杯」
「乾杯」
 一口飲み込むと、オレンジの爽やかさとカンパリの苦味が絶妙に絡み合い、心地よい後味が残る。瑞穂はというと、小さい身体からは似つかない豪快さで、グラスの半分ほどを空にしていた。

「それで、新郎とはどんなややこしい関係だったんだ?」
「ええぇ、もう本題? まあいいけどさ。でも、多分シュン君が想像してるような話じゃないよ」
 俺の想像してるようなこと。それはつまり、瑞穂と新郎がかつて男女としての関係だったのかという、まさにそこなのだろうか。
「新郎、雄馬君ね。私の高校時代の部活の後輩なの」
「部活のってことは、あの人も陸上を?」
 瑞穂が高校時代、県でも有数のスプリンターだということは、大学でも有名な話だった。本人は大事にされるのを嫌がってたけど。
「うん。雄馬君もスプリンターでね。まあ正直、選手としてはそこまでだったんだけど、意欲だけは誰にも負けてなくて、それで私も親身になってアドバイスとかしてたんだよね」
「そうなのか」
 ここまで聞くと、どう考えてもどストレートで俺の想像してたような話だ。
「ある日、私の録画してた世界陸上の試合が観たいって言うもんだから、家に連れてったのね。あ、流石に他の部員も一緒にね。その時に出会っちゃったわけよ。うちの妹と雄馬君が」
 と思ったら、急に流れが変わったぞ。
「そういえば、年子の妹がいるって言ってたな」
「よく覚えてるね。そうなの。高校は別だったから、今まで雄馬君とは面識が無かったんだ。そしたら雄馬君が妹に一目惚れしたみたいで、あの後相談されちゃった。あの時の真剣な顔は、いつ思い出しても面白いわ」

 そう言って笑う瑞穂は、本気で楽しそうな顔をしている。真剣に相談したのに毎度ネタにされる雄馬君を、密かに可哀想に思った。
「それで、瑞穂が色々根回しして、晴れて二人は付き合いましたとさ。ってところか?」
「そんなとこ。流石シュン君。察しがいいね」
「それほどでもないさ」
「それほどでもあるよ。だってシュン君、本当は気づいてたんでしょ。紗奈の気持ちに」

 思わずカンパリオレンジを吹き出すところだった。
「突然話が飛んだな。そういえば紗奈も卒業以来会ってないな。瑞穂は今でも会ってるのか?」
 紗奈とは瑞穂と同じく大学時代の同期で、特に俺や瑞穂と親しかった。
「まあ、お互いの休みが合った時にちょくちょく。それで、気づいてたんでしょ?」
「引っ張るなあ」
「いいでしょ。もうあれから五年経ってるんだし、それに今聞いたことは紗奈には言わないでおくから」
 瑞穂がこちらに身を乗り出してきて、キラキラした目で見つめられる。そんな顔をされたら、嫌とは言えない。惚れた弱みってやつだ。

「今だから言うけど、まあ、気づいてたよ」
「やっぱりね。じゃあどうして紗奈と付き合おうとか、そういうことしなかったの? 私の見たところ、紗奈が一線を越えられないところまでさりげなーく一定の距離を置いてたみたいだけど」
 俺は思わず両手を挙げた。そんなところまでバレてただなんて。完敗だ。
「全く、察しのよさではお前のが遥かに上だよ」
「えー図星だったの。じゃあ、これも本当かなあ」
「何が」
 まさか、俺の気持ちまでバレてただなんてことはないよな。告白したところで、瑞穂は紗奈に気を遣って絶対にオッケーしない。それがわかってたからこそ、この気持ちは誰にも見せず、奥底に隠してたのに。恋人にならないのなら、せめて四年間友達でいようと、そう思ってたのに。
「シュン君、他に好きな人がいたんでしょう。それも、ずっと片想い。私、何となくその相手もわかっちゃった」
 背筋を冷や汗がつたった。図星すぎて何も突っ込めない。
「……続けて」
「それは今のを肯定してるってことでいいのかな。その相手ってのは――知佳ちゃんでしょ。新婦でシュン君の従妹っていう」

 全身から一気に力が抜けた。よかった。ほとんど図星だったけど、肝心なところだけは外してくれて。俺の努力も無駄じゃなかったわけだ。
「確かに知佳に対して恋愛感情を抱いてた時期はあった。というか初恋だった。でもな、紗奈の気持ちに気づいた頃には、既に知佳はただの従妹だった。というわけで、惜しかったな。途中までドンピシャだったから、全部バレてるかと思ってヒヤヒヤしたぜ」
 瑞穂は何も言わずカクテルを飲み干した。かと思うと、グイっと身を寄せてきた。さっきとは比較にならないほど近く、後ろからひと押しされたら唇がぶつかってしまうほどに。
「ふーん。ってことは、相手こそ違えど、あの頃紗奈以外の誰かに片想いしてたのかあ。誰? 私の知ってる人?」
 思わず身を引いて、正面に向き直った。瑞穂に気持ちを見透かされるのを恐れたからではない。瑞穂には他意がないだろうが、あの距離で見つめられたら、三秒と我慢できないからだ。
「マスター。いつものウイスキー、ロックで」

 

 ***

 

 ウイスキーを一口含む度、喉に焼けるような感触が広がる。これがたまらなくクセになる。その感触に浸りながら、瑞穂に投げかけた難解な単語について思いを馳せた。

 噞喁。魚が口を水面に現してパクパクすることをいい、それが転じて激しく口論することという意味でも使われる、日本書紀から見られる古い言葉である。この間天皇家と鮎の関係について調べていた際に見つけて印象に残った言葉を、日常生活で使う機会が来るとは思っていなかった。最も、その意味は全く伝わらず、そもそも伝える気がなかったが。
 俺の頭の中では、まさに激しい議論が繰り広げられていた。せっかく再会できたのだから、瑞穂にこれまでの思いを伝えるべきか。それとも今まで通り、親しい友人の立場を守るべきか。どちらも正解で、どちらも間違いなのだろう。しかし、俺は必ずどちらかを選ばなくてはならない。そのために、あるべくして俺たちは再会を遂げたのだろうから。

「ってちょっと。そうやって誤魔化そうとしたって無駄なんだからね。さあ、この際全て白状しちゃいなさい」
「ちょっ、さっきから近いって!」
 再び心臓に悪い距離まで身を寄せてきて、更に肩を掴まれた。瑞穂の丸い瞳に視線を奪われたまま、逃げられない。ならばもう、いっそ――。


「いつから?」
 唇を押さえて俺を見上げる瑞穂の頬が赤いのは、決して酔いのせいだけではないだろう。そして、俺の頬もそれに負けないほど熱い。
「最初から」
 元々大きい瑞穂の瞳が、更に大きく見開かれた。
「そんな……全く気づかなかった。何で言ってくれなかったの?」
「告白したところで、瑞穂は紗奈に気を遣って断るだろう。それがわかっているからこそ、言えなかった。どうせ叶わないのなら、せめて友達として一緒にいたかったから。だから」
「――やっぱシュン君は察しがいいよ。私よりも遥かに」
 そう言うと、瑞穂は俺のウイスキーを奪い、グラス三分の一ほどを一気に飲み干した。
「おいバカ。それはそんな一気に呑むようなやつじゃ――」
「ケホッ……思いっきり酔わなきゃ話せないことだってあるでしょ」
 瑞穂の目がトロンとして、顔も更に赤くなった。学生時代よく呑んでるところを見ていたが、ここまで酔っ払ったのを見るのは初めてだ。

「シュン君が全部話してくれたんだから、私も全部話すね。私今、夢でも見てるんじゃないかと思ってるわ。だって、四年間ずっと片想いしてて、諦めるしかなかった人がいるんだもの。そんな人が、二人っきりでの呑みに誘ってくれたばかりか、私のことをずっと想っててくれてたんだもの」
 最後の方は嗚咽混じりで、それでも全て、瑞穂が今までずっと溜め込んできた想いを話してくれた。まさか、瑞穂も俺をだなんて。それじゃあ、俺たちは四年間ずっと、両想いなのに想いを押し殺してたってことなのかよ。そんなの、あんまりだろ。

「全く、そんな話聞いたら余計瑞穂のこと忘れらなくなるじゃないか」
「ヒック。突然キスしてきた人がよく言えるね。私だって、ようやく気持ちの整理ができたかというところだったのに、全部振り出しに戻っちゃったよ。……責任、とってよね」
 しなだれるように抱きついてきた瑞穂の腰に、腕を回した。初めて感じる瑞穂は、暖かくて、小さかった。
「俺でよければ、喜んで」